

この私が今ここにあること
〈空性〉の形而上学
著者:永澤護
頁数:328頁
定価:4000円+税
ISBN:978-4-910108-26-1 C0010
2026年9月10日発売
哲学者・永井均氏、清水高志氏 推薦!
「誰も問わなかった問いが、哲学と出会う。」
――永井均
「〈空〉の消息と世界の無限開闢を語る唯一の書物。」
――清水高志
「この私」が、なぜ、いま、ここにあるのかーー。
誰にとってもあまりに当たり前でありながら、考えはじめた途端に底の見えない問いがある。
この世界があること。私がいること。そして、その私が、ほかの誰でもなく「この私」として、今ここにあること。
本書は、その根源的な事実をめぐって、カント、アリストテレス、プラトン、ナーガールジュナ、道元、親鸞、永井均、入不二基義、清水高志らの哲学・思想を横断しながら、〈空性〉の力としての形而上学を構想する、著者渾身の哲学的探究である。
中心にあるのは、「この私が今ここにあること」という、誰もがそこから逃れることのできない問いである。
私とは何か? 現実とは何か? 言語はどこで世界に触れるのか? 自由とは何か…?
そして、Aでもなくnon-Aでもない「第四レンマ」の〈界面地帯〉において、世界と私とはどのように立ち上がるのか?
本書は、安易な答えを与える本ではない。
むしろ、私たちがふだん自明のものとして通り過ぎている「私」「今」「ここ」「現実」「言葉」「自由」を、もう一度、根底から問いなおすための本である。
哲学の古典、仏教思想、現代日本哲学を架橋しながら、「この私が今ここにあること」の不思議へと迫る、比類なき形而上学の試み。
【筆者からの言葉】
拙著『この私が今ここにあること――〈空性〉の形而上学』は、エッセイでも、哲学・思想書でも、研究書でも、アフォリズムでも、哲学のパンチライン集でもありません。
それは、読者をとても不思議な雰囲気へと誘う一冊です。
既存のどのジャンルにも収まりません。あえて既存の言葉を用いるなら、「形而上学書」と呼ぶしかないでしょう。しかし、その呼び名さえ十分ではありません。
未知のものに触れたとき、人はしばしば、それを既知の言葉では言い表せないと感じます。本書もまた、そのような読書体験を目指しています。
川端康成の『山の音』が、単なる「小説」という呼称だけでは捉えきれない作品であるように、本書もまた、既存の分類を少しだけ超えたところにある本であればと願っています。
【目次】
Epigraph/始まりの碑文
第一部
第一章 Prelude/前兆
第二章 この私の感覚――迷宮の扉
第三章 この私が線を引くこと
第四章 持続的なもの――時空の生成
第五章 この私が数えること
第六章 〈X〉という他者
第七章 現実と言語の狭間で
第八章 この私が今ここにあること
第九章 〈他者〉の到来――デカルト『第三省察』の衝撃
終幕の碑文へ
第二部
序文 〈私〉と〈空性〉への旅
第一章 無内包性と形式性
第二章 この〈私〉とその影
第三章 〈非-思量〉という次元/場
第四章 〈自己触発〉を巡る問題圏
第五章 カント『純粋理性批判』のデッドライン
第六章 左右の問題――この私の左右と時制の生成
第七章 プラトン『テアイテトス』の問題圏
第八章 対称性の自発的な破れと自由という力
Epilogue/終幕の碑文
附論一 〈非僧非俗〉――《定言命法》から〈非行非善〉へ
附論二 Any-nessのDeadlock
注
後記
【本書の「まえがき」】
Epigraph/始まりの碑文
本書のテーマは、この私が今ここにあることです。この私が今ここにあるとは、そもそもどういうことなのでしょうか。それは、この私の今ここへの問いといってもいいでしょう。必ずしもこの問いに対する答えではなくても、この問いを考える上でなにか手掛かりになるようなことを、これから探し求めていくということです。もしそれをどこまでも探し求めていこうとするなら、それは終わりのない探究になります。本書は、この私が今ここにあることというテーマを、この私の今ここへの問いとして探求した記録であり、また同時に、読者に対するこの探究の旅への誘いなのです。
例えば、私は、今ここで、この文章をノートパソコンで書いています。おそらくなにかを思いながら。なにかとは、今から一週間前に入った温泉のお湯がとても気持ちよかったとかです。もう少し硬く言えば、今から一週間前に入った温泉のお湯がとても気持ちよかったという私の経験です。その私の経験を、私は今ここで、「今から一週間前に入った温泉のお湯がとても気持ちよかった」と思っているのです。でもこのことは確かでしょうか? また「このこと」とはどういうことなのでしょうか?
さらに次のように問うことができます。私が今ここで書いているということは、この私が今ここにあることとなにか関係があるのでしょうか? それともとくに関係ないのでしょうか? ちょっと振り返ってみると、私が今ここで書いているということのうちに、この私が今ここにあることはすでに含まれているように思えます。あるいは、私が今ここで書いているということは、この私が今ここにあることのうちにすでに含まれているようにも思えます。でもその含まれているとは、いったいどういとなのでしょうか?
内容的に言えば、本書は、ナーガールジュナ(Nāgārjuna 一五〇年前後-二五〇年前後)が〈空性〉の力としてリニューアルした『第四レンマ(Aでもnon-Aでもない)』と道元の『正法眼蔵』を通奏低音的な指針(guiding concept like a basso continuo)とし、最終的に親鸞の『非僧非俗』という日本仏教が到達しうる一つの極点に至る探究の旅の記録です。
この第四レンマの哲学的-形而上学的な含意に関しては、ナーガールジュナの『中論』(Mūlamadhyamaka-kārikā)をはじめて包括的な理解へともたらした清水高志の『空の時代の『中論』について』(1)の読解作業がベースとなっています。
『哲学』とは――そのもともとの意味は「知を愛することphilosophia」なのですが――なぜかこの私に訪れた問いをどこまでも探究していくことです。どこまでも探し求めていくというそのあり方が、きっと愛するということなのでしょう。であるなら、なぜかこの私に訪れた問いがあって、その問いをどこまでも探究していく旅に出るなら、それはすでに哲学を生きているということです。哲学とは、何かの学問ではなく、なぜかこの私に訪れた問いを今ここで生きることそのものなのです。
ここで、本書のタイトル『この私が今ここにあること――〈空性〉の形而上学』について説明します。本書は、永井均の助言「中高生ぐらい(まあまあ頭はよいけど知識はまったく何もない)を読者に想定して書くとよいのではないでしょうか」を指針にして書いています。そういうわけで、哲学の専門用語はできる限り使わないか、使うとしてもできるだけかみ砕いていくことにします。
まず、『形而上学』――読みは「けいじじょうがく」となります――ですが、これはもともとはアリストテレスというプラトンの一番弟子で「すべての学問の祖」と呼ばれる古代ギリシアの偉大な哲学者の一群の講義ノートに後からつけられたタイトルです。それらノートの内容は、今でいう物理学(一般に自然科学)の祖である「自然学(ピュシカ)」の探究の後でなお残された――つまり自然学によっては探究できない――問題に絞った探究の記録です。それで、この講義ノートは、ギリシア語で『タ・メタ・タ・ピュシカ』(τὰ μετὰ τὰ φυσικά 自然についての書の後の書)と名付けられました。ということで、ギリシア語でμεταφυσικά、ラテン語でmetaphysica、英語で言えばmetaphysicsとなり、この場合の「meta(メタ)」が「の後の」、「physics」が「自然学」(物理学)です。
(つづく)
【著者略歴】
永澤護(ながさわ・まもる)
哲学者/形而上学者。北海道大学文学部卒。旧東京都立大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得。NPO法人 The Human Potential Institute 監事。ハーバード大学招聘学者 宮永國子主宰『宗教と社会』学会プロジェクトにおいて多分野の研究開発者と協働研究を行うとともに教育研究活動を継続。主な著書に、『カンブリア革命』水声社、『グローバル化とアイデンティティ・クライシス』(共著) 明石書店、『グローバル化とパラドックス』(共著) 世界思想社、『近代化と寛容』(共著) 風行社、編著書に『戦争、そして今──あの日々を、一人の女性が生きぬいた』KDP、永澤春榮著・永澤護編などがある。
