[決定版]四つのエコロジー
フェリックス・ガタリの思考
著者:上野俊哉
頁数:384頁
定価:3600円+税
ISBN:978-4-910108-17-9 C0010
装丁:美柑和俊
2024年4月14日発売
生態系(エコシステム)には自然と文化の対立などない!
思想の前線と世界の様々な街路(ストリート)を往還してきた著者が来るべき生態哲学(エコソフィー)の扉を開く。
ガタリの仕事のわかりにくさ、突飛な発想を身体で受けとめ、日常のうちに四重の機能子(流れ、機械状の門、実存の領土、非物体の宇宙)の生き生きとした例を縦横に見いだし、これを来るべき実践に向けて解き放つエコソフィー入門の書。
悦ばしい不一致=争異(ディッサンサス)、すれちがいを通してのみ、つながりは生まれる。
さらにフェリックス・ガタリのエコソフィーとエドゥアール・グリッサンの群島論の知られざる出会いと接触の見取り図を描く。
【目次】
[決定版]序章
はじめに 『みどりの仮面』とエコロジー
[旧版]序章 なぜエコロジーか? ガタリとは誰だったか?
第一章 自然を再考する
第一節 仕組みとしての自然
第二節 アンビエンスとしての主体感
第三節 機械状アニミズムと反自然の融即
第二章 エコソフィーとカオソフィー
第一節 分子革命からエコソフィーへ
第二節 カオスとカオスモーズ
第三節 潜在性と記号
第三章 分裂生成の宇宙
第一節 美的なものと地図作成法
第二節 DSM-V、あるいは発達原理の彼方に
第三節 リトルネロと音楽のエコロジー
終章 ブラジルと日本を横切って……〈全=世界〉リゾームへ
注
あとがき
【[決定版]序章、冒頭より】
別に本なんか読む必要ない、それもこんな難しそうで、読んではところどころ途方にくれるような代物は。
たまたま手にとっているこの本について、あるいはフェリックス・ガタリの著作や文章を読んで、きみはそう思うかもしれない。きみがどこで遊んでいても、学んでいても、あるいはまたどんな仕事で働いていても、この本に書かれたことはかならずどこかできみの経験と響きあっている。
この決定版序章はエッセイとして書いた。日本語環境でエッセイと言うと、身近におこったこと、昼間に蕎麦をたぐったとか、夕方には会合があったとか、私的な経験や生活を気ままに書いたジャンルと思うかもしれない。けれども欧米の言葉でエッセイという場合には、もうすこし広く試論や試みという意味で使われる。
研究論文はかならず先行する仕事をいくつでも証拠として、前例としてあげなければならない。それだけではなく、一つの専門領域=規律(しつけのなわばり)にもとづいてのみ、学術の文章は書かれる。それぞれの専門の定義、語彙に応じて使われる言葉や概念は一義的、排他的であるのが普通である。これに対し本稿のようなエッセイは、いちいち先行する仕事の全てを明示することはないが、その気になればそれらにアクセスできる回路を残しつつ、できるだけ普段の言葉使いに近いかたちで書いてみた。
そもそもきみは別に研究者になる/であるのではないし、この世界や社会の何らかの問題にいつも一定の見解を発信していなければならない、という立場にあるとはかぎらない。むしろ日常の様々な出来事やことがらを一種の資源=手段(リソース)として、積極的にガタリの理論や概念、方法、実践とそのつど響きあわせて読むことで、どんなエコロジー、エコソフィー(生態哲学)を生活世界に繰り広げていけるかを考える。この姿勢がきっと面白いし、世界や社会、自分の価値観を変えるには役に立つ。
フェリックス・ガタリはいつもマイナーだ。マイノリティとか、少数者の味方という意味ではない。もちろん、被抑圧者や弱者、周縁的な立場に置かれた者のことをガタリはつねに真剣に考えていた。だが、その闘いを「権利主張」や「政治的修正」というまずしい様式(モード)に閉じることはない。自らが弱者とことさらに言いたてるのでもない。なるほどガタリ本人は人格的にも相当、結構、周縁的というか、エキセントリックであったことは否めないにしても。マイナーであることは、見本を、モデルを、なるべく目標をもたないのであって、数や量が多いか少ないかには関わりがない。ドゥルーズ&ガタリのマイナー哲学はしたがってマイノリティ(少数者)の哲学では全くない(もちろん、両者が重なる場面は実践的、政治的にはありうる)。
本書でも述べているとおり、彼らの協働、というより「二人の間で書く」という営みにおいては、ガタリが思いつき、ドゥルーズがこれを哲学的にねりあげていた。概念のほとんど、たとえば抽象機械、欲望機械、言表行為の集合的仕組みcollective assemblages of enunciations、機械状の仕組みmachinic assemblages、リゾーム……などはガタリが思いつき、ドゥルーズが精緻にしていたという見立てが一般的である(「器官なき身体」については、アントナン・アルトー由来なので、このうちには数えない)。
「ガタリの言葉はいつも過剰で、また少し足りない」。哲学、精神医学、精神分析、政治思想、言語学、記号論、動物行動学、量子力学……などから自由に、それこそ横断的に概念や考え方を引っ張ってきて、とてつもない発想をしては、そのつどパフォーマティヴに言葉や概念、造語をねりあげている(実はこの専門領域の横断的ラインナップは、安部公房の作家人生における興味、クレオール文化や生物学、コンピュータなどへの関心とぴったり重なっており、二人の小さな友情もうなづける)。
一般にフランスの「現代思想」に対して自然科学の概念の無駄に衒学的な誤用にもとづいている、という批判もある。なかでもガタリの言語表現の奔放さは悪名が高い。しかし、知性や学のシステムそのもののうちに一種のアナーキーを想定するのも無駄ではない。様々な学問や方法、異なる専門のやり方のそれぞれが、互いに自らの環境を形成するように関わりあっていく過程にも、知性や感覚、学問の生態系、エコロジーがありうる。
エコロジーと聞いて、きみならまず何を思い出す? 地球温暖化、SDGs、オーガニック食材、マイクロプラスチック、里山の消滅、風力発電、原発事故、放射能汚染水の海洋放出……いくらでも具体例は、身のまわりにも、ネットのうちにもころがっている。ひょっとしてSDGsなんて学校で優等生のコたちが先生におもねって口にしたり、実行したりするネタ、あるいは「意識高い系」の人たちやカネ持ちの気まぐれ、道楽くらいに感じているかもしれない。たしかにこの日常には、航空燃料をばんばん使って運ばれる「オーガニック素材」もあるだ
ろうし、エネルギー浪費の利便性に頼ったままの親エコロジーの態度はしばしば見られる。
「意識高い系」や「カネ持ちの趣味」などという嫌味も、全くの見当はずれとは言えない。しかし、どこか狭量で、あらかじめ多数派(マジョリティ)の考え、ないし日本語環境という「世間」が食べ物と環境、人間の関係をとらえなおして生活する身ぶりに対して向けるからかいや皮肉になっている。だが実はそうした感覚や違和、反応にこそ、ガタリが『三つのエコロジー』で強調したかった「精神のエコロジー」の必要が見えてくる。
最近、石牟礼道子の本を片手に水俣を訪ねたおり、エコロジーという言葉の使用や流通のいかがわしさをあらためて痛切に感じさせられた。(以下つづく)